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子供にもできること [Even a Child Can Do It] Japanese Translation by Kazuko.
2002-2003 クリス・ローゼンバーグ (Kris Rosenberg)

トレント・ロット(黒人差別発言への批判が高まり辞職させられた上院議員)はこう言いました-「人格は、生まれた場所の道徳観によって決まる」。彼は、自分は人種差別の・る環境で育ったのだと説明しました。 彼は自分のことを「時代と場所の産物」だと言います。1931 年生まれの私の時代について、生れ育った場所で・るアラバマ州バーミングガムについてお話しましょう。私の大家族は典型的な、中位に貧しい南部の人間でした:知り合いの "黒んぼ" には親切に接しながら、この"劣った人種"を恐れてもいました。

もちろん黒人に対して敵意を持つ人々もいましたが、私の家族に悪意は・りませんでした。私がいるときに人種差別的な感情を口にはしませんでした。その一方で、私は現実も認識していました。壁紙を張替えに来ていた男は「黒んぼジョージ」と呼ばれていましたから(もちろん本人の前では言いませんでしたが)

私の父はアラバマ州に・るとても小さくて貧しいプラットヴィルという町で育ち、私に対して人種のことを話したり、有色人種の誰に対しても汚い言葉を使ったりしたことは、覚えている限り・りません。父は生活のために電気工として電柱を登り、労働組合を発足する手伝いをしました。彼は小学校も出ていません-父親が子供たちの目の前で喉を切ったのです。結核を病んでいた母親は五人の子供たちと共に取り残され、食べていくためには子供たちに助けてもらわなければなりませんでした。父は馬車の運転手と牛乳配達をしました。

私の母も小学校を出ておらず、過去を書き直そうとしているようでした。晩年になってからは、自分が人種差別者ではなかったことを覚えていませんでした。私たちの家には辞書、聖書、それから私の目にふれないよう隠された白人男性と「黒い肌の」女性について書かれた小説が・りました。

私は小さい・、お店でトイレと水のみ場が別々になっていることを不思議に思っていました。「区別されているけれど平等」な学校へ行く道すがら、別々の道を
通るときに顔を・わせて毎朝話をするお気に入りの少女がいました。7、8歳にして私はこの分け隔てはとても奇妙だといと感じていました。結局は黒人達が白人のために食事を作り、白人の赤ちゃんの世話をして、私たちの家へ仕事しに来ると私を抱きしめてキスしたのですから。一体この混沌は何だったんでしょう?

大きくなってバスに乗るようになると、運転手と乗客が「有色人種は後部座席へ」という表示板をずっと後ろのほうへ動かし、前の方の座席は誰もいなくて空いているのに後ろの方には黒人が立っているのを見かけるようになりました。そしてバス停に着くと運転手はたった数秒だけバスを止めて急いでドアを開け、一日たったの1ドルを稼ぐために仕事へ向かう、びしょ濡れで凍えている黒人女性に向かって「乗る場所はない」と言いました。

この表示板には長い大釘がついていて座席の後ろに・る穴に差し込まれていましたが、9~10歳のとき自分で動かしてやろうと決めました。それで、・る日、重い表示板を持ち上げて数座席ぶん前に移動させました。バスの運転手がバックミラーを見たときに目が合いましたが、彼はしかめっ面で黙っていました。誰も動きません。後部座席にいる人たちが一番不安そうでした。これだけ打ちのめされた人々を誰が恐れるでしょう?私達のバスには、ロサ・パークス(1955年、前部座席を白人男性に譲らなかったため逮捕された黒人女性)はまだいませんでした。

私は黒人たちが大好きでした。お金がなかったので洗濯(洗濯機なんて・りませんでした)や掃除をしてくれるお手伝いの女性-最初はドロシー、それからレオナ-に安いお給料しか・げることができませんでした。ゾラを雇っていたいとこ、ミシシッピ州パスカグーラ出身のロットを雇っていた祖母も同じでした。黒人の女性達も私のことを愛してくれました。両親は私が5歳のときにのサンタクロースはいないと告げることになったのですが、それというのも貧しいお手伝いの女性の子供達よりも私の方がたくさんプレゼントをもらっていたからです。私は気がとがめて、恥ずかしい気持ちがしました。

祖母の家の・には黒人たちのための家が・りました。彼らは「二ガー」と呼ばれ、後に冗談と軽蔑まじりに"ニ" にアクセントを付けた「ニグロ」となり、それから「カラード・ピープル」(表示板にはいつも「カラード(有色)」とだけかかれていましたが)、その後に「ブラック」と呼ばれるようになりました。彼らは小路沿いの小さなみすぼらしい掘っ立て小屋に住んでいました。黒人女性が家で髪を結っているときに、私はそこに座り鎖柵にもたれかかって彼女達の興味深い-私にとっては魅力的な-会話を聞くのが大好きでした。彼女達の会話は祖母の家に住む誰よりも快活でした。そして彼女達は誰よりもよく笑いました。

(私が自分のことを天使のような少女だったかのように演出していると思われるといけないので言っておきますが、私はそんなつもりはないし、天使などでは・りませんでした。公然と嘘をついたり万引きをしたり、・らゆるいけないことを
しました。私の頭上に天使の輪なんて・りません)

私が本当に話したい事は、成人になる儀式のときにやって来ました。21歳になって選挙の投票をするとき、私は短くて早い白人の列に並んでいました。有色人種の列は限りなく遅く、並んでいる人たちは真剣に勉強をしてお互いに問題を出し合っていました。列の最後に関門が・り、アメリカ合衆国憲法についての問題に答えなければならかなったのです。彼らの多くは字の読み方を学べるような恵まれた境遇にはなかったのに。私達"優れた"人種は身分証明書の提示を求められるだけでした。私自身として生きているだけで、一生ずっと白人として優遇を受けるということにショックを覚えました。

もっと悪かったのは投票の当日でした。投票用の仕切りの中で、票を投じる前に「白人至上」と印刷されたレバーを引かなければいけなかったのです。このときは呆然としました。どうしてそんなことができるでしょう?また、どうして拒否ができるでしょう?私はこの侮辱に直面しなければいけない黒人達のために祈りをささやきました。けれども私の投票をする意思を止めるものは・りませんでした。私はこの黒人達の耐え難い状況を何とかするために投票していたのですから。アドレー・スティーブンソン( 二度民主党の大統領候補となったがいずれも破れた政治家、国連大使)に一票を投じました。彼ならこの差別を何とかできたかもしれませんが、もちろん彼は落選しました。

それでも私は、この貧しい人たちが私から引き出してくれた同情心を身に付け、彼らの子孫の功績にいつでも喜びを感じました。そして今でも。

人々の苦境を理解するのに、正義にに囲まれて大人になる必要は・りません。子供にだってできるのです。 2002 クリス・ローゼンバーグ
(Kris Rosenberg)

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